2022/1/27
日本三大観音の一つ、ということであるが、正しくは日本三大長谷観音の一つというべきである
日本三大長谷観音とは、
大和国(現在の奈良県)初瀬長谷観音様(楠の元木)
相模国(現在の神奈川県)鎌倉長谷観音様(楠の中木)
下総国(現在の茨城県)古河長谷観音様(楠の末木)
であり、一本の楠によって彫れ、大和の長谷観音様は楠の元木、鎌倉の長谷観音様、鎌倉の長谷観音様は中木、古河の長谷観音様は楠の末木によって彫れたと口伝されているとのことである
他にも、長谷寺(秋田県由利本荘市)、長谷観音(福島県二本松市)、などが名乗りを上げているようであり、茨城の古河ではなく、秋田の長谷寺を押す意見もあるようだ
法興山妙光寺
古河市名木古木に指定されている二本のイチョウの大木は、写真左が推定樹齢220年、右が130年ほどである
葛飾北斎が晩年に描いた「七面大明神応現図」を所有するとのことであるが、現在は東京国立博物館に寄託されているそうだ
お万の方とは、3代将軍徳川家光の側室であり、六条有純の娘。お梅の方ともいう。
伊勢慶光院に入り、継目の御礼のため登営したおり、家光の目にとまり還俗を余儀なくされた。家光の寵厚く、春日局の没後は大奥の取締りも行い大上臈となった。
水戸藩祖徳川頼房の母であり、その次男光圀(黄門様)が水戸徳川家を嗣いだ。
家光没後永光院と号し、墓所は小石川無量院。一方、池上本門寺に墓石があるという記録もあるようだ。
西宮大神
旧古河城を移築された商家の店蔵お休み処 坂長(さかちょう)
坂長 文庫蔵
旧古河城乾門(いぬいもん)
妻側中央部分を弓形にして、左右になだらかなに流れる曲線をもつ唐破風(からはふ)造りの屋根をのせた平唐門(ひらからもん)で、両側に袖塀が付き、向かって右側に潜戸がある
ぬたや屋 本店
古河城お茶屋口址碑
西宮大神
旧古河城を移築された商家の店蔵お休み処 坂長(さかちょう)
坂長 文庫蔵
妻側中央部分を弓形にして、左右になだらかなに流れる曲線をもつ唐破風(からはふ)造りの屋根をのせた平唐門(ひらからもん)で、両側に袖塀が付き、向かって右側に潜戸がある
ぬたや屋 本店
古河城お茶屋口址碑
古河藩主 土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための茶屋を置いたことにはじまるといわれています。
参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。
陽明堂・文具店青木酒造は、古河唯一の造り酒屋
八幡神社
古河城主土井利勝が、古河城の鬼門除けとして城内に祀られていた八幡神社を現在地に移転した寛永19年(1642)に植えられたと伝えられる銀杏(イチョウ)。かつては、樹高30.736 m、目通り周囲6.4 mの巨木であったが、 平成12年(2000年)に上部が切断され、現在の樹高は14.20 mとなった。古河市指定天然記念物
清瀧不動尊
大聖院
戦国時代の大永3年(1523年)、第2代古河公方だった足利政氏が大朝宗賀和尚を迎えて「永昌寺」を開いたことが起源とされている。場所は、近世の古河城域内に創建されたのち古河市内の坂間に移転したとする説と、最初から坂間にあったとする説がある
江戸時代初期、古河城主が奥平忠昌のころ(1620年頃)、城下町整備にともない坂間から現在地に移転した(『寺記』)。万延元年(1860年)、火災により堂宇を焼失したが、明治42年(1909年)に現在の本堂が再建された
古河市内の坂間には大聖院が現在地に移転する前の旧跡があるが、その隣には釣鐘沼と呼ばれた沼があった。寺の創建から間もないころ、釣鐘がなかったので、大聖院の僧が上州の聖僧に相談したところ、「南天竜王より竜宮に伝わる名鐘を授かった」と、豆粒程度のものを紙に包んで渡された。帰途、本当に釣鐘になるのか不安に感じた僧が包みを開けると、大きな釣鐘が表れて運べなくなったので、僧は寺に戻り、檀徒を集め、牛車をひいて鐘を持ち帰った。年月を経て、暴風で本堂が壊れたことがあったが、その鐘楼だけは壊れなかった。このとき寺を古河町内に移転させて再建することになり、鐘を運び出そうとしたところ、綱が切れて近くの沼に落ちてしまった。沼の中を探しても見つからなかったため、「竜宮様は坂間の大聖院に鐘を授けたのに、移転しようとしたので、取り上げられてしまった。」と人々は噂しあったという
秋葉神社
野村甘露煮店
散策中に見つけた、Mexican Kitchen バルバ
諏訪八幡神社
西光寺
延宝7年(1679)に造立された「古河大仏」だったが、大戦中の銅鉄回収のため、赤だすきをかけて出陣されたそう
南東側から撮った写真だが、現在の旧国道4号線は真北に伸びているが、当時はここで左折していたようだ
西側から見ても、江戸は右折となっている
直進できなかったのは、当時は神宮寺、尊勝院、宝輪寺がその場所にあったためのようだ
武家屋敷の風情
雀神社(正一位雀大明神)
西側から見ても、江戸は右折となっている
直進できなかったのは、当時は神宮寺、尊勝院、宝輪寺がその場所にあったためのようだ
武家屋敷の風情
雀神社(正一位雀大明神)
貞観元年(859)に出雲いずも大社から勧請したものとされ、大己貴命おおなむちのみこと・少彦名命すくなびこなのみこと・事代主命ことしろぬしのみことの三柱の神が祀られている。 雀神社の名の起こりは、昔この辺りを「雀が原」といったことからその名がつけられたとも、「国鎮めの神」といったのが訛ってスズメになったともいわれている。
東に向いた一の鳥居
その先で90度曲がり、北に向かう参道
東に向いた一の鳥居
その先で90度曲がり、北に向かう参道
左右の石山の上に、紅色の大きな狛犬がいます
本殿は慶長10年(1605)、古河城主松平康長の造営である。本殿の軒を飾る木鼻きばな・実肘木さねひじき・海老虹梁えびこうりょうといった組物に施された唐草の装飾文様や、拝殿の大きく面を取った角柱、舟底形の天井などに桃山期の力強い気風のうかがえる古建築である。
本殿の周りが広々としているのも、珍しいのではないでしょうか
雀神社の西は、渡良瀬川堤
足尾鉱毒事件に生涯を捧げた「田中正造遺徳之賛碑」があり、明治天皇への直訴状が刻まれています
永井寺(えいせいじ)
寛永3年(1626)に古河城主永井直勝が開基。境内には、直勝の墳墓を含めた永井家墓所や古河藩の藩校・盈科堂(えいかどう)の教授だった小高益卿(おだか えきけい)、書家として著名な小山霞外(おやま かがい)の墓があり、いずれも市指定史跡
古河城船渡門址
頼政神社 (正一位頼政大明神)
以仁王の挙兵にて敗死した源頼政の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる神社
河口信任(かわぐちしんにん)屋敷跡
本殿は慶長10年(1605)、古河城主松平康長の造営である。本殿の軒を飾る木鼻きばな・実肘木さねひじき・海老虹梁えびこうりょうといった組物に施された唐草の装飾文様や、拝殿の大きく面を取った角柱、舟底形の天井などに桃山期の力強い気風のうかがえる古建築である。
本殿の周りが広々としているのも、珍しいのではないでしょうか
雀神社の西は、渡良瀬川堤
足尾鉱毒事件に生涯を捧げた「田中正造遺徳之賛碑」があり、明治天皇への直訴状が刻まれています
永井寺(えいせいじ)
寛永3年(1626)に古河城主永井直勝が開基。境内には、直勝の墳墓を含めた永井家墓所や古河藩の藩校・盈科堂(えいかどう)の教授だった小高益卿(おだか えきけい)、書家として著名な小山霞外(おやま かがい)の墓があり、いずれも市指定史跡
古河城船渡門址
頼政神社 (正一位頼政大明神)
以仁王の挙兵にて敗死した源頼政の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる神社
河口信任(かわぐちしんにん)屋敷跡
河口信任は古河藩医。医者の家柄で,藩主土井利里の古河への移封に同行し,御側医となりました。明和7年(1770)自ら執刀して,わが国二番目の人体解剖書「解屍編」を刊行しました。これは有名な「解体新書」の出る2年前のことです。
以前に歴史観を訪れた際に見た、あの解剖をした人ですね
古河城 獅子ヶ崎(ししがさき)土塁
古河城 獅子ヶ崎(ししがさき)土塁
「獅子ケ崎」は、戦略的要地として古河城内でもひときわ重要視されていた場所です。
その地理的形状は、 曲輪の突端、尖った土塁が堀に突き出すというきわめて特徴的な構造で、周囲より高く築かれたその土塁は、南に隣接する「御成門」と「御成道」のほか、古河城全体を見通して有事に備えることのできる場所でした。
また一説に、この高台に大砲を据えたともいい、この地の重要性をかいま見ることができることでしょう。
鎌倉時代に造られた古河城は、戦国時代には足利氏の拠点の一つとして、古河公方の本拠として、江戸時代の日光詣の宿城として、歴史に重要な場所であったが、明治6年(1873)に発布された廃城令によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された
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