2022/1/30
治承年間(1170後半から1180年代)に足利忠綱(?)による築城とみられる
鹿沼市口粟野(くちあわの)の城山公園へ
ここは粟野城のあった場所です
治承年間(1170後半から1180年代)に足利忠綱(?)による築城とみられる
他説では、暦応年間(1338~1342)佐野氏の家臣平野将監範久により築城されたといわれ、150年の開きがある
標高257m、比高110mの山城です
ウメ、サクラ、ツツジが楽しめそう
ジグザグの径を登り、中腹にある五重塔
天正3年(1575)佐野氏の家臣平野大膳久国が城主のとき、皆川広照の命を受けた家臣斎藤秀隆により攻め落とされ、久国は佐野へと逃れた。
その後、天正12年(1584)平野久国は斎藤秀隆が北条氏との戦い(皆川の戦い)に参陣中、手薄になった粟野城を奪い返した。
天正16年(1588)皆川広照の家臣斎藤秀隆は2千の兵を率いて粟野城の平野軍と激戦となり、秀隆は討死したが攻防戦に勝利し、落合徳雲入道が城代となった。この戦いで城主の平野久国も討死したという。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方の軍勢に攻められ落城、粟野城は廃城となった。
日光の女峰山が見えているようだ
山頂に口粟野防空監視哨跡がある
ウメ、サクラ、ツツジが楽しめそう
ジグザグの径を登り、中腹にある五重塔
天正3年(1575)佐野氏の家臣平野大膳久国が城主のとき、皆川広照の命を受けた家臣斎藤秀隆により攻め落とされ、久国は佐野へと逃れた。
その後、天正12年(1584)平野久国は斎藤秀隆が北条氏との戦い(皆川の戦い)に参陣中、手薄になった粟野城を奪い返した。
天正16年(1588)皆川広照の家臣斎藤秀隆は2千の兵を率いて粟野城の平野軍と激戦となり、秀隆は討死したが攻防戦に勝利し、落合徳雲入道が城代となった。この戦いで城主の平野久国も討死したという。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方の軍勢に攻められ落城、粟野城は廃城となった。
日光の女峰山が見えているようだ
山頂に口粟野防空監視哨跡がある