栃木市西方町のハイキングで、近津(ちかつ)神社からスタート
永仁元年(1293)時の西方城主の命を請け、宇都宮二荒山神社より御分霊を観請
二の鳥居には、黄色いしめ縄
境内のところどころで、ロウバイの花が香っています
祭神は、大己貴(おおあなむち)命、事代主(ことしろぬし)命、武甕槌(たけみかづち)命
永仁元年(1293)時の西方城主の命を請け、宇都宮二荒山神社より御分霊を観請
二の鳥居には、黄色いしめ縄
境内のところどころで、ロウバイの花が香っています
祭神は、大己貴(おおあなむち)命、事代主(ことしろぬし)命、武甕槌(たけみかづち)命
西方城の重臣、小倉主膳(おぐらしゅぜん)之介が馬で川を渡ろうとすると、河童が後ろから飛びつき相撲を挑んでいきました。しかし、主膳之介は大力の武士でしたから河童はたちまち川原にたたきつけられてしまいました。河童は驚き、「お許し下さい。二度と人にいたずらしません」と約束して、川の中に姿を消しました。
約400年前、ときの西方城主・藤田能登守によって、小倉川(思川)に造られた取水堰「小倉堰」
その後、村人たちは、清瀬川を渡る時は「小倉だ、小倉だ」と言うようになり、河童の難を避けたということです。そして川の名まで小倉川とよばれるようになりました。
約400年前、ときの西方城主・藤田能登守によって、小倉川(思川)に造られた取水堰「小倉堰」
長さは約175mにもわたり、「関東の三堰」にも数えられているようですが、諸説あり
「西方五千石」と呼ばれていた栃木市西方町の農業を、今でも支えているそうですが、冬季は水量がなく、乾燥注意報状態です
小倉堰の脇にある水神社は、近津神社の祠で、洪水の度に小倉堰の修繕が必要だったため、水波能売神・弥都波能売神(みずはのめのかみ)を祀ったそうです
小倉堰の脇にある水神社は、近津神社の祠で、洪水の度に小倉堰の修繕が必要だったため、水波能売神・弥都波能売神(みずはのめのかみ)を祀ったそうです
0 件のコメント:
コメントを投稿